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芸術という大義

 2018-11-02
もう芸術という大義がなくても良いのではないか?
それを愛している、大切に思う、他のものと比べものにならないくらいに。
心を動かされるそれが、それぞれの誰かにとって特別なものだということ。

芸術が他のものと比べて特別なのではなく。


誰かを批判しているのではないのです。でも芸術について息詰まり感、閉塞感を感じるのはわたしだけではないと思う。芸術は確かに特別なものだった。特別なものでなければいけなかった。でも いつまでもその時代を続けなくていい。

いつものことだけれど、そしてわたしはどうするの?




改めて、自分の個性を受け入れる

 2018-10-09
絵画や彫刻や舞台作品などを見ると「そしてわたしはどうするの?」という思いがこころにやってくるのは、わたしは表現する側だという認識があるからなのだということに改めて気が付きました。

自分の表現ツールは何なのか。40歳過ぎて始めたヴァイオリン以外に、もっと上手くできることが他にあるのではないか。最近ヴァイオリンをどうやって表現することと結びつけて良いかわからなくなって、他に思いつくことを見に行ったり考えたりしてみましたが、やはり、どうしたって、ヴァイオリンなのです。バレエの代わりにヴァイオリンを、と思ったわたしは本当に正しくて、それを疑うわたしの方がおかしかった。

バレエを踊るのとヴァイオリンを弾くことのオオモトにあるものは、自分にとっては同じものです。他の人に理解できなくてもわたしにはそうです。それは小さい子どもの頃から感じていて、今もずーっと持っていて、何かを通して表したいと思うもの。これまで何度か中断したけれど、今もあまり上手くいっていないように感じているけれど、手段をヴァイオリン以外に探してでもそれをやらなくては…と思うくらい、あきらめ悪く持続する、何かです。

ツッコミどころのないそつない演奏ができるようにはならないかもしれません。平均的に全体的に良く…というのは無理かな。あちこち難ありでツッコミどころはあっても、それを忘れさせる何かがあるような音楽ができるようになりたい。

上手くいっていないと思うのは、気持ちと身体に不自由を感じているのと、上手くいっていないことに目が向ているからで、現実には少しずつ良くはなっている。わたしのやりたい音楽は、従来の下から着実に積み上げていく方法だけでは辿り着かないものかもしれなくて、飛躍した場所から足りないものを補うために降りてくるような方法が必要です。

ヴァイオリンの先生は、今まで、そのどちらからもアプローチしてくれていました。「できない自分」という意識が染み付いていて、辿り着きたい場所からのアプローチをしてくださっても、わたしの側が無意識のうちに受け取り拒否していたかもしれないと気が付きました。ツィゴイネルワイゼンを長い間やっているのは自分にとって大きな意味のあることだから、なのですよね。

そう言いながら今日はヴァイオリンの練習ができていない。眠たい時間に消音機をつけて弾くよりも、今日これを書くことの方が数段大切だと思って、記しています。半分言い訳なのは分かっているけれど。明日からはこれまでよりももっと楽に上手くいく気がしています。


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連想、妄想を繋げて行き着いた先

 2017-06-01
時々、ちょっと目にしたものがキッカケになって、グルグルと思いをめぐらせ、思い浮かんだことを調べて調べて妄想を膨らませることがあります。あみだクジや迷路のように何処に行き着くのか自分でも予想できないので、勝手にどこかへ連れて行かれるような気持ちです。でも、それがちょっと面白い。

今回は電車の中で見た「ソラマチ大道芸フェスティバル2017」の吊広告から始まりました。わたしの中に昔からあったタネのようなものが結びついて…(途中は長いので省略、笑)、結局行き着いた先は、ヴァイオリンを弾く時の身体の感覚についてのヒントでした。興味がある方へ、ある方へ、と進んで行くのだからまあ自然なことなのでしょうけれど。

バレエの時のような身体の使い方でヴァイオリンを弾きたい。胸郭や背中から腕を動かすそのやり方は、自分の中から幸せな気持ちやエネルギーが外へ広がるような気持ちになる。喜びや嬉しさや自分という存在の確かさのようなものを感じられるような気がします。アーチェリーではそれを上手に応用できたけれど、ヴァイオリンでは思うだけでまだ途中です。

丹田というと下腹、おへその下にあるといわれるけれど、そこは下丹田で、眉間のところに上丹田、わたしの好きな胸&背中の場所は中丹田と言うようです。どうやらわたしはバレエをやりながら中丹田を使う訓練をしていたのかもしれないと気が付きました。自分で思っただけだし、丹田と言っても目で見えるものでもなく、またまた気のせいといえば気のせいかもしれないけれど、わたしはそのやり方で良いと認めてもらったような気持ちです。

重心が上がりすぎては良くないとは思うのです。重心が上がっていると薄い軽い音になってしまうかもしれません。ヴァイオリンはバレエのように外見の形ではなく望む音が出るためにはどんなフォームでも構わない。結局は自分がどんな音を出したいのかという問いに戻って来てしまいました。(笑)



ただやりたいことを

 2017-05-06
お互いのやりたいことを実現させ合う仲のヒントラボのいとう明美さん、以前ちょっとヴァイオリンを触っていただいた時から楽器の響きに魅了されて、3月にヴァイオリン体験をしてくださいました。その後も定期的にヴァイオリンに触れていたいと、月に一度のペースで二人で練習しています。

ギターやウクレレのアンサンブルのご経験があり、ただ触るだけでなく弾いてみたいということで、わたしはヴァイオリンの先生ではないのでレッスンではないけれど、部活動の先輩のような立場で知っていることをお伝えして一緒に音を出しています。

これまでは鈴木の教本1巻の「きらきら星」を練習していましたが、昨日は明美さんが一枚の楽譜を持ってきました。「Seek Ye First」という賛美歌。練習の前日に参加された『奇跡の道』の訳者田中百合子さんのお話し会で歌ったものだそうです。わたしは日程の都合で行かれなかったのですが、百合子さん訳の『奇跡の道』でACIMを学んでおり、過去2回のお話し会には参加しました。

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知らない曲でしたが、よく見てみると下のパートはG線の1stポジションだけで弾けて「きらきら星」よりも簡単です。明美さんは下のパート、わたしは上のパートを弾くことにして、しばらくの練習の後、合わせてみました。ギターやウクレレを弾いたことがあるとはいえ、ヴァイオリンを触って3回目で合奏ができるなんて、本当にすごい!時々音がちゃんと重なって響いていると感じるときもあって、幸せで嬉しい気持ちになりました。

百合子さんからいただいたこの曲は、ふたりにとってはとても嬉しいものです。百合子さんからというよりは神さまから届けられた練習課題のよう。ヴァイオリンを弾いてどうなるとかこの先どうするとか、そういうことよりも、ただ共に楽器を触って音を重ねて嬉しい時間を過ごすことはとても純粋な喜びのように感じられました。

このところヴァイオリンでも仕事でも、上手くできないことばかりに思えて久々のグルグルモード、心身ともにグッタリしてしまっていました。人と比べるのではなく、わたしができること、わたしがやりたいことをやる。気を散らして元気を失くすのではなく、そこだけをもっと真剣に考えていこうと改めて思いました。数日前には仕事もヴァイオリンも、先に全く道が無いような、足元に地面さえないように感じた瞬間があって怖くなったけれど(大げさなようだけどそう感じて驚いたのです)、昨日は気持ちがスッキリと整理されて「そんなの、これまでだってそうだったじゃない(笑)」と思えました。

今日もこれから出かけて、ゴールデンウイークの仕事もあと一息です。



喜びを音にするわたしなりの弾き方

 2017-04-13
今、『ヴァイオリン・マスタリー』という本を少しずつ読み進めています。音楽からだけでなく、わたしには演奏家の写真や言葉から感じることも多くあります。昨日のレッスンの時に先生とその本についてお話しした会話も刺激になって、頭の中が良い意味でモヤモヤとし始めていました。

ハイフェッツはヴァイオリンを習うようになってから憧れの存在で、以前から写真でも映像でも、特に右手の動きやかたちがとても印象的で好きでした。本の中にはハイフェッツへのインタビューもあり、今日もその部分を読みました。

楽器屋さんから持ち帰った毛替えの済んだ弓に少しずつ松ヤニを塗り、点検で駒の位置を調整してもらった相棒くんの開放弦を繰り返し弾きながらモヤモヤを頭の中で廻らせていたら、閃きというか気づきというか、言葉で上手く書けない右手の動きのニュアンスが生まれました。

ヴァイオリンの持ち方も弓の動かし方もいろんなやり方があり、外から見たらその内のどれかかもしれません。でも自分では今までのやり方とはかなり違っていて新しい感覚、最初に先生から習ったのとも少し違います。

バレエもアーチェリーも、目標にするもの(バレエでは美しい動き、アーチェリーでは真ん中に当てる)と自分なりの身体の心地良い使い方を一致させることができていましたが、ヴァイオリンではなかなかできませんでした。ヴァイオリンを弾く時にはいつも身体のあちこちに不自由さや違和感を感じていて、心の中にあるものをその不自由な動きを経由して外に出さなければなりませんでした。

技術的に未熟な上に身体の動きが悪いから上手くできないのだと思っていたけれど、そうではありませんでした。音楽を表現する時の身体の喜びとヴァイオリンを弾く動作を結びつけることがようやくできたように思います。右手を動かすという意識が無いまま、何もしなくても弓が動いて音が出たような気がしました。

その音が美しい音だったかどうかは自分では分からないし、何かおかしな弓の動かし方をしているのかもしれないし、明日になったらどこかへ消えてしまって元に戻ってしまうかもしれないけれど、わたしにとって本当に嬉しい大発見なのです。

手帳の今日の日付の欄に「ヴァイオリンを弾くということが(わたしなりに)分った日」と書き込みました。記念日にしたいくらいに忘れたくない嬉しいことです。明日になっても再現できると良いけれど。



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